甲子園でライブがしたい、宮田悟志 怪我で諦めたプロ野球への道
INTERVIEW

甲子園でライブがしたい、宮田悟志 怪我で諦めたプロ野球への道


記者:桂泉晴名

撮影:

掲載:17年07月02日

読了時間:約13分

2カ月遅かったらここにはいなかった

宮田悟志

――将来的なこととか、不安はなかったのでしょうか?

 それが…。「行こう」って思ったら、結構、突進するタイプなので。そのときは「行ける」と思っていたんですよ。不安がなかったというのは嘘だと思うんですが、でも24、25歳のときだったので、自分の年齢を考えると、今から始めるのであれば、周りの人たちと同じくらいのペースでやっていてもダメだと思って。そのときはかなり追い込んでいました。

 会社を辞めて融通が利くということで、バーのバイトをしたりとか。とにかく歌に、音楽に集中できるような仕事をしようと思っていました。夜まで仕事して、朝まで歌っているみたいなことを続けていました。だから体は結構ボロボロだったんですけれど、でもそのくらいやらなかったら、たぶん追い付かなかったかもしれないと思っています。そのへんは、振り返ってみると野球から学んだ部分があったかもしれないです。

 僕は神奈川出身ですけれど、仙台の高校だったので中学を卒業して親元を離れて、ずっとそこから大学卒業まで7年間寮生活を送っていました。だから自分のことは自分でやる、みたいな感じでしたね。ほぼテレビもない生活をしていたので(笑)、世の中のことはまったく分からないというか。だけどそのときに音楽に支えられていて。たぶん音楽はタイムリーに知っていたと思います。

――ストイックにすることは習慣づいていたから、突然目標が変わっても、その集中力は変わらなかったと。

 今、思えばそうなのかもしれないです。デビューできるという根拠はなにもないけれど、やるんだったらちゃんとやろうと。そういう環境を自分で作らなきゃいけないな、と思っていたんですよね。もう若くなかったので。

――年齢がいっても夢はかなえられるということは、ご自身の経験もあるから説得力が違いますね。

 『VOCAL BATTLE AUDITION 2』のときも年齢制限があって、あと2カ月遅かったら受けられてなかったんです。ファンの方の中には、そのときのことを見てくださっている同じくらいの年齢の方もいらっしゃって。そういった人たちにとって刺激になったみたいで、それこそ僕が歌う意味なのかなと思います。「サンサーラ」はいろいろな方に届けばもちろん嬉しいですが、それに加えてなかなか夢に踏み切れない方にとって刺激になるような「サンサーラ」であったらいいな、と思います。

この記事の写真
宮田悟志

記事タグ 

コメントを書く(ユーザー登録不要)

関連する記事