メロディは時代に流れ紡いでいる
――最近の音楽シーンは歴史を紡いでいないという意見もあります。
繋がっていないこともないと思うんですよね。例えば30代の人が好きになった楽曲があったとしたら、やっていた人が50代、僕くらいの年代で、僕もエルビス・プレスリーとかその年代の楽曲が好きで影響を受けているので、ずっとスパイスは流れているというか。
ただ、時代時代で音が変わるのか、意識して変えているのか、聴き手が飽きてきているからちょっと新しくして目立とうとして変わっていくのか、それはその時にエネルギーがある人が仕掛けた流れにいくことだと思います。
90年代で小室哲哉さんがデジタルのサウンドを乗っけてやったのは、小室さんがエネルギーがあるから日本中が小室さんのサウンドになって、その後に秋元康さんがAKB48を出されてやっただけだと思うんですよね。
――秋元さんとのエピソードはありますか。
やっぱりチェッカーズの時に秋元康さんに歌詞を書いてもらったりとか、お話を色々してもらったりとか、ソロの方もプロデュースしてもらったりとか。曲に歌詞を書いてもらったことがあって、それが23歳の時。その時、秋元さんは29歳くらいだったかな。それでめっちゃ褒めてくれて。
その後に、何かの企画の時に演歌を作ることになって、秋元さんが作詞で僕が作曲で。カセットテープで「ラララ」で歌ったものを送ったら、秋元さんから電話がかかってきて「政治、これめっちゃいいな」って。「こんな感じにいくから」って言って、それを一瞬で作られるんですよね。だから間近でそういう人物と接してきたから、とりあえずちゃんとしたものが出来るのは当たり前、それで早い。
僕も発注を受けた時は「大丈夫ですよ、すぐ出来ますから」と、全然、引き出しはないけどそう言って、ハッタリでやるようにして自分を追い込んだのが20代の中盤でしたね。
プロという認識
――「人にウケる音楽」や「自分が表現したい音楽」があると思いますが、それらに対しての葛藤はありますか?
自分が表現をする音楽をやるのであればプロになる必要はないんですよ。プロになるということは、誰かしらに認めてもらいたくて、一人でも多くに振り向いてもらいたくて、それはレコード会社や事務所からするとビジネスとして価値のあるアーティストにならないと食っていけないということなんですよね。
僕もスタートがチェッカーズで、プロの作家の方が付いてくれて、運良くスタートから売れたんですけど、楽曲自体は「何でこの曲がヒットしたんだろう」と思う事もあります。それまでは英語のカバーをずっと歌っていたんです。日本の歌謡サウンドにバンドを付けたのがチェッカーズだったから、それがウケて「そこでも何でかなあ」と思っていたんです。
でもステージに立つと、お客さんが一緒に歌ってくれるという感動、自分達でこういうのを作ろうと思ってもそのスキルがないので、プロの作家の先生達が作ってくれる楽曲には足下にも及ばなかったんです。
「アルバムの半分くらいは自分達で作ってみたら」ということがあったり、B面は自分達で作ってみようというチャンスはあったんです。それで3、4年やって、ライブをやるうちに「やりたいこと」というより「みんなに喜んでもらった上で自分達が気持ち良いもの」というものを見つけられるようになった。ライブだと生の反応が分かるので、レコーディングだけだったら分からなかったことなんです。
自分達が作った曲で「これはカッコいいだろう」と思ってもお客さんはシラーっとして、プロの作家さんが作ったヒット曲をやると盛り上がって、「この差は何なんだろう」と思いましたね。
――ライブで反応をみてアレンジを変えたこともありますか?
あります。あと曲順ですね。やはり自分達で作った曲の方が可愛いから、ライブで一番盛り上がるであろう場面でそれをやるんですけどコケるんですよね(笑)。それで舞台監督とかが「やっぱりヒットでビシッと締めないと駄目でしょ…」ということで、アンコールの最後に「涙のリクエスト」をやると盛り上がるんですよね。「みんなを気持ち良くさせる」ということをやらないと、プロとしては失格なんだなと思いましたね。
――当時そのギャップに悩んだりしましたか?
悩むというより、基本的にそのスキルがないんでしょうね。ただ、売れているという素敵な状況は色んな方が一緒に仕事をしてくれますから、学ぶことはあるんですけど、口頭で「こういう風にした方がいい」と言われたことは一回もないんです。プロの人というのは余計なことは言わないんですよ。
一回だけプロの先生に「曲の作り方でコツはないですか?」って聞いたら、「メロディが上がったら下がりなさい。下がったら上がりなさい。メロディが刻んだら伸ばしなさい。伸ばしたら刻みなさい。それだけかな」と(笑)。でも、それが今でも曲を作る時、困った時なんかはそれを思い出すと解決するんです。