挫折を知ったバークリー音楽大学
――そのあとバークリー音楽大学に入学されますが、あちらでの生活はいかがでした。
バークリーはどん底からのスタートでした。サックスを吹いたデモを送って、奨学金も1000ドルもらって、調子に乗って意気揚々と17歳でアメリカに行きました。まず周りには女性でサックスをやっている人がいませんでした。当時バークリーにはあまり若い人もいなくて、日本から来ている人達は、ほとんど25歳以上の人で「17歳のハーフの女性が日本からやってきた」と注目されちゃって(笑)。
――珍しかったんですね。
周りからちやほやされて凄く困りました。でも、サックスもそれほど吹けないし何もわからない。小さい頃から精神的に病みやすかったこともあって、早くも1年目で挫折を経験しました。
――ちょっと引っ込み思案な性格もあって?
そう。我慢強くて。忘れもしない話なんですけど、ある有名なミュージシャンが同級生にいて、彼から「君はジョン・コルトレーンが好きなの? それともチャーリー・パーカーが好きなの?」と聞かれて、パーカーとコルトレーンの違いが私にはわからなくて。その時は恥ずかしかったです…コルトレーンはテナーで、パーカーはアルトで、同じビバップでもスタイルが違うんです。私はビバップという言葉すらも知らなくて...。それで何て答えていいかわからなくて。パーカーもコルトレーンについて答えられない私は、その場ではただの世間知らずだったわけです。サックスで入ったのはいいけど何もわかってないなと…。
――それが挫折の一歩?
それが一歩目です。アンサンブルの授業があっても全く吹けないんです。当時の先生はボブ・ザングという方で、バークリーでの私の恩師なんですけど、練習方法も知らなかったので、先生に教えてもらうんですが、そのボブ・ザングからも諦められて。それで「私、駄目だ」とだんだん落ち込んでいきました。だけど、サックスで表現ができなくても、表現したいことが溜まってきているのは自分で感じていたんです。その中で声にして表現できるかもと思ったのが、1年目の挫折の時です。
――歌に目覚めてきたんですね。
2年目の19歳の時に楽器を変える手続きをして、ボイスという学科を選択しました。そこから一旦サックスでのストレスが晴れて気持ちがすっきりしました。歌の先生に「オーディションを受けに行きなさい」と言われたんですけど「私はまだ歌に変えたばかりで歌えません」と話したら、「歌は後からついてくるから、とりあえずやりなさい」と、その先生の一言が背中を押ししてくれました。私は学校内のあらゆるオーディションを受けました。ゴスペル、クワイヤー、そしてボーカルサミットといったようなボビー・マクファーリンのスタイルのグループ、そしてボーカルジャズアンサンブル、それら全て受かってしまったんです。それが歌を本格的にやることになったきっかけです。
――「とりあえずやりなさい」というのは、凄く良い言葉ですね。
精神面で自分に自信がない子だったので、それは大きいです。いまはその自分のメンタルの弱さも全て役に立っています。メンタル一つで、できるものもできなくなるし。でもそこを解き放つと、自分でも知らなかった部分が内面からどんどん出てくることがあるんだなと知りました。いまやっとまとめてお話しできますけど、当時の先生の一言はきっとそういうことだったと思います。もし昔、私のピアノの才能を誰かが見つけてくれて、伸ばして行こうという人がいたなら、当時の悩みはなかったと思います。
――きっとピアニストとして形を残すという選択肢もあったのかもしれませんね。
試練を与えられたんだなと、今となっては思います。