リズム感のある文体
――そのメロディは今では日本の特長的なものにもなっています。
外国のものは英語自体にリズム感があるからね。もちろん外国にもメロディが良いものは沢山ありますけど、ロックでもリフを中心に考えて作っていく、というのはよく聞きます。日本はそういった意味では逆でメロディを大事にする。ただ僕は、外国のものだからといってメロディはないとは限らないと思っていますから、そういったメロディが付いたものが僕は好きですけどね。
――東京五輪に向けて日本の音楽が再認識されていますが、日本の音楽はこれだというものはありますか?
こればっかりはね、海外の方が決めることですからね(笑)。まあ漫画やコミック、アニメといったものが日本の文化としてすごく確立していますから。ただ日本語という障壁があるからそこはなかなか難しいですよね。
――外国の方からすると日本語は難しいそうですからね。表現も多彩で。
多彩性といったら文字数が多いことがまず違いますから。漢字があってひらがな、カタカナまで存在するから逆に勉強する方が大変でしょうね。だから僕は日本人で良かったと、ネイティブですからね(笑)。僕は英文科だったので、外国の文学を原文で読んだりしたこともありました。これは音楽とは違いますけど、英語だとやっぱり表現が違いますよね。
もちろん、外国文学も素晴らしいんですが、それを翻訳したものを読んでいるじゃないですか。ちょっとこう表現の仕方が違う感じがするよね。比喩が多いものって文章としてみたら読みにくいでしょ。日本語の場合はそういうのではないから。もちろん作家によっても全然違いますけど、その美しい日本語というのかな、そういったものはやっぱりいいなあと思いますけどね、文体でも、小説でもね。美しい日本語のある小説というのは。
――作家デビュー作となった『音叉』でも美しい日本語が使われています。
それは自分では分からないから(笑)。でも、自分で言うのもなんですが、やっぱり音楽家として45年やってきましたからね、リズム感のある文体を目指しましたね。リズムがあるような読みやすく伝わりやすい言葉といいますか、そういったものを意識的しました。
――リズミカルな部分を意識したということですが、それは読み返してということですか?
そうですね、読み返して、繋げたり、削ったりは意識的にしました。
――確かに読みやすく、スラスラと進みました。
どうしても、僕が書くとなると僕のイメージが強いじゃないですか。THE ALFEEを45年やってきたから。読者の方はどうしても僕やバンドに物語を投影するんですよね。でもそこに書かれているのはほとんどフィクションで、僕ではない。自伝でもないですから。序盤は投影しても仕方がないと思いますが、読み進むことによって、物語に惹き込まれて「あ、これは違うんだ」というのは分かってもらえたらいいなと。
そのためにはやっぱりリズム感が必要ですよね。読み進めていくとだんだんと意識が変わっていき、「これは高見沢じゃないな」と。バンドも出てきますけど、そもそもこんなに真剣にミーティングしたことはないから。練習しようとすると櫻井(賢)は来なかったり。普通のそこら辺にいる学生で、勉強もしなかったし、麻雀狂いの学生だったから(笑)。覚え立てだから楽しくてしょうがない。
――麻雀は、ギターを持った時の感覚と近いですか?
ギターよりも麻雀の方が面白い、絶対にそれは言えるな。ずっとやってたよ。なんでこんなに夢中になったのか分からないぐらい。
――徹夜でというのも。
そうですね。徹夜もね。夜弱いのに坂崎(幸之助)もやっていたからね(笑)。だから(小説では)自分達とは違うもの、逆のものを作ろうとしました。それが『音叉』に出て来る主人公たちですね。
――感情表現のところでギターのチョーキングなど、音に関することもできます。それが分かりやすかったところもありました。
そこはミュージシャンが書いているということもあって意図的に書いてみたんですけどね。
音を文章で表現したら、今どのような感情でどういう状況か、といのが分かりやすく伝わるかなと思って書いたことなのですが、でも最初ちょっと書いたけど、それをずっと書かなきゃいけないというのが一番難しかったですよ、コードネームを書いたり、音のことを表すというのは、やっぱり。
なぜかというと、それを文章で表すよりも弾いちゃった方が早いから、僕は。「こういう音だよ」と。いつもそうやってきているので、それを逆に文章にすると意外と面倒だなぁというか、スラスラと出てくるような言葉ではなかったですよ。
――それと「サイケ」。これはThe KanLeKeeZの「エレキな恋人」にも出てくる言葉ですが、これに限らずこれまでのTHE ALFEEの音楽に出てきたワードも散りばめられているという印象がありました。
まあ、「サイケ」はね、当時は結構流行っていたからね。曲の中で使ったといっても前からあった言葉だからね(笑)。
――こうして出来上がってみるとどうですか。
やっぱり曲と一緒だよね。僕も曲を書いて完成し終わったあとに「あそこ、こうした方が良かったのかな」とか、ちょっとした不満なんかは残りますけど、『音叉』も自分のなかでは完璧ではないですから。そこはちょっと考えて次にいこうかなと思っています。林真理子さんにですね「ラブシーンとかにちょっと照れがある」と言われまして。「あ、なるほど」と。まあ確かにそういった部分はあったかもしれないですけど。これはこれで完結しましたから、次の作品ではそういったところ、照れを無くしていこうかなと思います(笑)。
小説と歌詞の違い
――『音叉』は昨年8月から月刊小説誌『オール讀物』(文藝春秋)で連載されて、今回書籍化されましたが、今回の新曲と同時進行ですか?
そうではないですね。新曲は今年ですね。ただこの『音叉』が書き終えた後に作った曲なので、そう言った意味では小説を書いた後に書いた歌詞ですからすごく新鮮に感じました。今まで作ってきた歌詞のイメージと違う感じといいますか。そこは面白かったですね。
――新たな表現方法としての小説がありますが、歌詞との違いは感じましたか?
そうですね。小説を書いた自分とまた新たに歌詞を書いた自分と違う別人格という。やっぱり使う脳は違うという感じはしました。
歌詞は、多少表現が甘くてもメロディと共にあるとそれが素晴らしい楽曲なる場合がある。ただ、歌詞だけが良くて曲は悪いとちょっとおかしいなとなる。それはやっぱりメロディというものをすごく優先しますから。その中に乗ってくる歌詞、それに合う言葉を見つけなきゃいけないし、そこは小説とは違いますよね。説明しなくてもメロディが分からせてくれる、心情や状況が表現できるというものも曲の良さです。
一方で小説は、音がない分だけやっぱりディティールにもこだわったりもします。説明しすぎちゃいけない説明の仕方、それはまあそれぞれ表現方法が違うと思うんですが、そこはちょっと「違うんだなぁ」というか、その表現の仕方が小説と歌詞とでは違うということを感じました。
――今話しておられましたが、『音叉』を読んだあとに曲を聴きましたら、音楽というのは心情や状況を表現するのに適しているというのを改めて感じました。さて、『音叉』の物語としては淡い青春といいますか、懐かしい青春の香りがしました。そうさせている要因に言葉の表現があると思います。コーヒーひとつとっても違うんです。例えば、響子がインスタントコーヒーを煎れるシーンがあるんですけど、この本に出てくるコーヒーはインスタトなのに味わい深く感じるんです。
本当に? 有難うございます。まあね、作り手によるよね(笑)。
――今回の新曲と重ねている自分もあって、「響子」がパリに行くシーンがありますが、新曲もフランスを舞台にしていて、禁断の恋とかけているのかなと。
なるほど、全然違いますけどね(笑)。書き進めていくうちに意外とあそこで終わってしまったので、自分でもびっくりしているんですけど、これで終わりかい! みたいな。それが面白いところですよね、小説ってね。長いスパンで書きますから、どんどん物語が進んでいっちゃうんですよね、自分の予想外で。
編集の方にも言われたんです、「書き進むと物語が動く」って。最初意味が分かんなかったんですけど「そういうことか」と。僕は、物語の最後まで決め込まないで書き進めて物語を作っていったので、意外な人物が重要になったり、重要だった人物が意外とあっさりと終わったり、そういうことがかなりこの『音叉』ではありました。「こういう風に物語って動いていくんだな」というのを実感しました。生き物というか。物語の展開によってその人物像が動くというのは感じましたね。
この小説が完結し終わった後に、この曲を作りましたけども、その時にはもう終わっていますから「響子」の存在もすっかり忘れていました。完全にマリー・アントワネット、ルイ14世の世界ですから。『音叉』とのリンクは自分のなかでは全然していませんけど、でもね、そうやって想像してくれるのは別に間違いじゃないですからね。
――色んな解釈ができるという。
そうそうそう。たまたまパリだったんですけどね、一番あの頃が華やかだったからパリで良いだろうと思って。